つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
最近は就寝時に、太陽の中の世界に意識を向けることが多くなってきた。
というより、布団に入ると、ほとんど無自覚に意識が向いてしまう。
以下は、私の空想の産物。
小宇宙の旅:日々のこころの旅の記録として・・・ /最近は、毎朝の感謝の時間(瞑想?祈り?)の内面のことを書いています。とはいえ、意識しようとすると霧散する微細な心の中の動きやイメージを翻訳して言葉にしても、他の人にはわかりにくいかもしれませんが。。。
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
最近は就寝時に、太陽の中の世界に意識を向けることが多くなってきた。
というより、布団に入ると、ほとんど無自覚に意識が向いてしまう。
以下は、私の空想の産物。
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
昨夜の寝入りばなの夢
夢の中で誰かと話をしている
その文字は読めないけれど、
それでもその文字を見ると、
その人が話す言葉の背景や意図や感情などを表現しているようで、
相手のことがとてもよくわかる。
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
心が満たされて、幸せを感じられるためには
小さなことに感謝できる感性が必要なのかもしれない
どんな出来事にもプラス面とマイナス面がある
嫌なことも辛いことも、プラス面を捉えることで、感謝できるようになりたい
心やカラダが、光に満たされて、穏やかな感覚を味う
世界のすべてとつながりを感じられる
世界のすべてから愛情を受けていることを感じられる
だから、満たされた気持ちになれる
他と断絶している個なのではなく、
すべてがつながっていて、
わたしはその一部だから
この感覚をカラダが覚えるまでは、意識的な練習が必要なのかもしれない
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
異動になって、支店から本社へ。通勤時間は片道20-30分だったのが2時間に。
それまでとは全く異なる慣れない職務のなかで、1ヶ月。
心が折れました。
そんな方から電話で相談をいただいた。
どうしたらいいのかな、と。
心の中に、職場や人へのネガティブな想いが広がっている
心の中の不安、不満が少しずつ積み重なって
怒りや悲しみが広がっていく様子が見えてきた
そして、どんどんとエネルギーを失っていく
カラダに変調をきたす前に、何とかしたい
気持ちは分かるが、何かをしてあげることができるわけではない
話を聴きながら、
心に光が無いことを感じる
小さなことにありがとうと思えることを探そう
心に小さな光を灯していこう
感謝の想いが広がれば、
心がほぐれて、柔らかくなる、ほんわかあたたかくなる
心が満たされてくる
周囲が問題なんじゃない
どんな環境の中にあっても、
満たされた心であることにチャレンジできる環境が与えられた
と捉えてみてはどうだろうか?
そして、「私」の心が光で満たされていくと
「私」の表情、言葉、行動が変わっていく
その結果、周囲も変わっていく
そこまでのチャレンジをしてみよう!
愛情と感謝に満たされた「私」を創っていくために!
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
「ブッダ」という言葉は、
サンスクリット語の「ブドゥ」という言葉が語源で、
「ブッダ(仏陀)」には
「目覚めた人」や「覚りを開いた人」
という意味があるそうです。
お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)も、
覚りを開いた人という意味でブッダと呼ばれます。
ブッダの教えを仏教だとすると、
覚りを開いた人の教え
という意味になるのかもしれません。
それでは、何を教えたかというと、個人的な独断と偏見で超訳すると、
・「ものごとは元来別々の存在である」という認識(分別知・無明)によって、さまざまな人生の苦悩が生まれてきているんだよ。
・実は、ものごとは本来つながっていて一つのものであり、それが様々な実相を持って区別されているにすぎないんだけれど、そのことを知ってそのように捉えることができると、苦悩はなくなっていくんだよ。
・そのために、まずは自らの内に苦悩があることにしっかりと向き合い認めて(苦諦)、その原因となっていることを知り(集諦)、原因を無くして苦を無くす意志を持って(滅諦)、そのための方法(道諦・八正道)を歩んでいけばいいんだよ。(四諦)
ということ。
要するに、
私は人生の苦悩を感じることがあるけれど、
それは「ものごとは元来別々の存在である」という認識から生じているので、
「ものごとはすべてつながっていて一つのものである」
という認識で生きることができるようになろうね。
ということのようです。
それで、
具体的な取り組みの方法も様々に示されているんだけれど、
こうして大枠で捉えていくと、
仏教って生き方の実践のようなイメージで見えてきました。
もちろん、
具体的な取り組みの方法については、
時代や社会背景などによって様々に変遷してきて、
「念仏だけで救われる」「地獄と極楽」
のようなお話しも出てくるのだけれど、
それはそれぞれの時代背景において、
取り組みやすく生きやすくしていくための
方便だったのかもしれません。
本質は、
「ものごとの捉え方(認識)の変容によって生きやすくなるように取り組んでいくこと」
であって、
信じがたいものを信じるような「信仰」とは
違うような気がするのですが、
どうなんでしょうね。。。
宗教というよりも
実践哲学のような印象が強くなっているのですが、
「宗教」って何なのでしょうね?
つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。 今朝は朝から天気が良かったので、大きな神社まで約3Kmの早朝散歩。 歩きながら、そして立ち止まって、いろいろなことに想いが巡った。 ●矛盾した前提を抱える「私」 自分の中にある暗黙の前提に意識を向けてみると、いろ...