グルジェフ、維摩経・・・世間の評価に左右されず、自分の目で確かめる
ーーー
維摩経に触れると、出家・在家を区別することの意義が問われる
出家して組織に帰属すると、その枠内のディスコースに縛られる
自由に感じることを縛ってしまうこともある
法を求めるもの、相を求めるもの・・・それぞれに求めるものが異なれば、かみ合わない
「維摩経」 <1>長尾 雅人 1973/10 中央公論社 文庫本 186p
法はアーラヤではありません。アーラヤを喜ぶ者は、法を求めているのではなく、アーラヤを求めているのです。法は無相であってむなしい。相に従って識知する者は、法を求めるのではなく、相をもとめているのです。法は、それと共住しうるようなものではない。法とともに住しようとする者は、法を求めているのではなく、(法と)住することを求めているのです。法は、見たり、聞いたり、判断したり、知ったりさえるものではない。見・聞・覚・知を行なうものは、見・聞・覚・知を求めているのであって、法を求めているのではありません。大徳シャーリプトラよ、法は有為でもなく無為でもない。有為を対象とするものは、法を求めるのではなく、彼らは有為をとらえようと求めているのです。それゆえに、シャーリプトラよ、法を求めようとするならば、あなたはいかなる法も求めてはならないのです。 p81
イエス降誕時の羊飼いに思いが巡る
ブッダに粥を施したスジャータに思いが巡る
組織の中にあって学び習得するものと、整える方向性が異なる
ーーーー
無意識の世界に膨大な情報が流れているように、
現実の世界においても膨大な情報に接している
その中で、ごくわずかなものをキャッチして生きているに過ぎない
何をキャッチするのか?
心のあり方、想いの所在が定まった時に
現実が動き出す
シンクロニシティとは、膨大な情報の中から、
自らの人生に統合的に、いま必要なものをキャッチし拾い出す能力である
ーーーー
地球を抱きしめて、大地に感謝を捧げ、
自分のカラダの隅々の細胞にまで「ありがとう」を伝えて、
そこで生じる感覚をしっかり味わい、今日を歩みだす。
その時は鮮明だけれども、意識を現実に戻すと、とてもはかない感覚を
大切に両手で掬い、確認する
全体に思いを馳せた上で、目の前の現実に向き合っていく。
地球を抱きしめて、大地に感謝を捧げ、
自分のカラダの隅々の細胞にまで「ありがとう」を伝えて、
そこで生じる感覚をしっかり味わい、今日を終える。
1日の構成はこれが良いのかもしれない
0 件のコメント:
コメントを投稿