つながりと関わりの中に生かしていただいて、ありがとうございます。
時間を、いま生きている3次元空間の感覚で捉えると、全体像を把握できない。
肉体が滅して、霊体/魂の存在になったときの時間とは大きく異なるから。
魂は滅することがない。
肉体の生を終えた後、その人生のすべての歩みを見ることになる。
それは記憶・記録として観るのではなく、
実際の歩みを見ることになる
だからこそ、その場の感覚がリアルに感じられて、肉体があるとき以上に刺激を受ける。
これは何を意味するのか。
肉体の生を終えた魂は、自分の人生と共にある。
時間軸の概念が異なるため、魂から見ると同じように歩んでいる感覚はないだろう。
しかし、肉体を持つ立場の時間感覚としては、常にともにあるようなものだ。
誰かに見られている感覚がするとき、
見ているのは実は自分の魂だったということが起きているのかもしれない。
肉体の人生を終えた私(魂)に語り掛けると
心に返ってくるので、感覚的な対話が成り立つ。
自らの歩みを正し、改めることもできる。
いま生きている3次元空間の感覚では
その後の人生が変わるように感じるかもしれないが、
そうではない。
人の人生は常に選択の連続であり、
どの選択をしても、その先に起こることのテーマは決まっている。
起こり方の詳細は変わるかもしれないが、越えるべき向き合うテーマは決まっている。
自らが生まれてくるときに、持ってきたものだから。
守護霊といわれる存在の一つは、自分自身なのかもしれない。
そして、肉体はこの世界を生きる=味わい体験するための借り物。
使い終えたら、きちんと大地に返すもの。
<ここまでは、肉体を持つ立場を主体としての表現、ここからは魂を主体としてみてみる>
肉体の時間軸で見ると、大きな人生の時間の流れも
魂としてみると、一つのかたまりのようなもの
肉体の人生と共にあるときも、
あとから振り返るときも同じ軸にあるのかもしれない。
肉体を滅した魂から見ると、
自分自身の体験を味わいながら観ているようなもの
いわば自らの内での体験を味わっているといえる
もう少し補足すると、
「肉体が滅した」という捉え方自体が、肉体的な3次元空間の捉え方であり、
魂の存在からすると、常にそこにあるだけなので、
生まれてもいないし滅してもいないしていない。
これは、根源のエネルギー(神?)が
自らの内(多次元の全宇宙)で起こっていることを味わっていることと
フラクタル(相似形)な関係にあるようだ
聖書の創世記1章26節・27節にあるように、
神は自らの似姿として人を創造されたのかもしれない。
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